やうやう春はあけぼの。

初恋が遅すぎた人が、恋と関係性について考える

好きだから誤解する

ー空白を補足する<信頼>の大切さー

 

好意がある人物のSNSをつい見てしまったり、プライベートでも仕事でも、その人が関わっていることについ介入したくなったり。

それは「何でも知ろうと思えば知ることができる」今だからこそ、誰しもが経験することかもしれない。

でも、全部を正しく知ろうとすることはいつだって苦しい。

所詮、画面越しに得るその人の情報は、断片的でしかなく、その一点一点を結ぶために、わたしたちは勝手な妄想(それはたびたび自己肯定感の低さに裏付けされた、不確かな推測)によって、空白を埋めようとしてしまう。

 

ホームズは、わたしの「勝手な勘違い」を見つけるたびに、「何でそんな風に考えちゃうかな」と笑った。そのたびに、わたしははち切れそうになっていた胸を撫で下ろす。

 

すべてを把握しようとして、呟きと呟きの間を勝手な地の文で創作することは、苦しいわりに、いつだって不正解の文脈を生み出してしまう。

この人ならきっとこう考えるだろう、少なくともわたしを苦しめるような阿呆な答えは出さないだろう、と全体を俯瞰して思えること、案外大事なんではなかろうか。

そういう、不確かなものを確かに思い描ける想像力。その源泉は、互いを「信頼」することにある。

 

ホームズはわたしと違う方を向き、彼だけの一日を彼なりに過ごす。

わたしが把握できる行動、理解できる思考はその一部にすぎない。

その点と点を、消せない自意識の黒いマジックで、間違った方向に繋ぐことが出来るなら、信頼のHBの鉛筆で、やんわり結ぶことだって出来るはずだ。

 

間違ったら対話という消ゴムで消したらよいし、でも、きっと、だんだんと間違えずに引けるようになる。

「そんなことする人間だって、思われてたなんてむしろ心外だね」

今回は、わたしの負けを認めよう。

ごめんね、ホームズ。

 

景色を共有するということ 

―海老天とホームズの話―

ひとつ前に述べた「LINEでわたしのいない景色を送りつけられるとつらい問題」そのままを、わたしはホームズに打ち明けてみた。

とはいえ、「今日のランチの写真」にいちいちわたしが憤慨するのは、極めて奇妙な光景であり、あたまに疑問符を浮かべられて当然の事案である。

それでも、ホームズはそれをわかってくれた。

理解しようとしてくれた。

 

その日食べた海老天の写真を、送ってこなかったのである。

 

たぶん彼、海老天、すごく送りたかったんじゃないかな。

なぜ、わたしがお昼の海老天の存在を知っているか。後日「やっぱり海老天見て」となったからである。

とはいえ、その後、ホームズはあまり写真を送ってこなくなってしまった。

気を遣わせてしまって、わたしはひそかに罪悪感を抱いていた。なにもかも、わたしが大人になれないせいなのであった。

本当は、送りたかったよね、海老。

 

そんなある日、ホームズが部屋から撮影したであろう、雨上がりの空を送ってくれた。

それは、「わたしがいない景色」だったけれども、わたしはそれを見てなんだか嬉しくなった。なんてことない景色だったけれど、それは、わたしの真上に見えるのと、まったく同じ空模様だったからだ。

写真だけでなく、時間や場所まで、一瞬共有できた気がした。繋がれた気がした。

だから嬉しかったんだ。

 

わたしも真似して、夕方の雨上がりの空を撮って送ってみたけれど、深夜まで働いていたホームズに「悠長だね」と笑われてしまった。

わたしは悠長で一点にこだわりそれを見つめ、ホームズはいつも忙しくいろんな方向を向いている。それでもわたしたちの時間は、ふとした瞬間に、こうして交わっている。

関係性のその先へ

―関係性とは何なのか、ホームズとわたしは「何」なのか―

その日は雨であった。

わたしは、どうしても、どうしても、ホームズとの関係が「何」なのか、明確にしたくなってしまった。

きっかけは些細なことだったが、わたしたちはもう一年も一緒にいるのだから、という思いの自然な発露に違いなかった。

 

なのでわたしはあろうことか、ホームズに長文のレジュメを送りつけた。しかもPDFで。

いま、わたしは何が苦しいのか、また、考えうる関係で繋がった場合の、メリットデメリットその他もろもろである。

それを送ったあと、わたしは一度面と向かって話したいと彼にお願いをし、もとい、仕事が立て込んでいる彼を呼びつけたのである。

 

その日は雨であった。

呼びつけたにも関わらず、ホームズは笑顔だった。色恋沙汰で、PDFで抗議してくるのは、後にも先にも君だけだろうと笑った。

元来、優しい男なのである。わたしは「ごめん」と言い、彼も「ごめん」と言った。

食事もおいしかった。話もちゃんと聞いてくれた。わたしの悲しむことは何一つ起こらなかった。不格好に自分の気持ちの話をするわたしの手を、ホームズは握ってくれていた。

 

歳上の彼の「恋愛感情はないけれど、愛情と愛着はある」という言葉には偽りも他意もなかったように思われる。

ホームズは「都合がいい話かもしれないけど、」と付け足した。

それに対して、わたしがこれまで誰かに恋をしたことがなく、「恋愛感情」自体がブラックボックスなのもまた、確かであった。正直に言えば、ホームズをいわゆる「好き」なのかどうか、わたしは自分で判断することができないのである。

わたしは「都合がいい話かもしれないけど、」と言った。

 

だから、40歳と27歳のわたしたち二人の関係は、「告白」「応答」「拒否」「受諾」だけでは成立させることはとても出来ない。

お互いにとってのお互いは、他では代わりがきかない「その人だけの場所」を埋めていること。

彼が、わたしの嫌がることを絶対にしないこと。

わたしが、彼の嫌がることは絶対にできないこと。

 

これだけが、ただただ明確にそこにあり、ホームズの手が大きくてあたたかかった。

 

恋愛感情は無い、あるいはあるかどうか定かではない。けれども愛情と愛着があることは確かで、彼にとってのわたしの場所はわたししか埋められず、わたしにとっての彼の場所は、一生彼をしまっておく場所になるのだろう。

膨大な嫉妬と、手を伸ばそうとして背伸びをして痛めた心と、そして「可能性」に抱いた淡い期待と、「好き」という言葉は、ホームズの手の中にゆっくり熔けて、しぼんでしまった。

 

喪失感は案外感じず、ただ濾すに濾されて残ったとても単純な「好意」と、わたしの人生に交わってくれてありがとうという気持ちが、ただ真っ直ぐに胸に残った。

丸め込まれて、ほだされるふりをしながら。

今はただ、自分の「したい」を選ばないといられない気持ちと、わたしが自然としてしまうことで、彼が何かしらの心地よさを手にしてくれれば、それでいい。

 

わたしたちの関係は、いつかはきっと変えなければならないときがくるのだろうが、だからこそ、ホームズはわたしにとっての「特別」なのかもしれない。

 

もうわたしは、無理に手を伸ばして泣かなくてもいい。「恋人」になれない自分を無駄に卑下する必要もない。わたしがいない景色に嫉妬する必要もない。

選択しなかったものを無理に追いかけ絶望する必要もない。

わたしはわたしで、わたしらしく進めばいい。そうすることしかできない。

 

わたしたちの間に横たわる、埋められない10年間は、埋める必要がなかったんだ。

 

無理に伸ばしてもがいた手は、勝手に決めつけた高さまで、届かなくてもよかった。

ホームズだって、手を伸ばしてくれていた。

だからこうして、手を握りあえた。

今はその事実を大事にしたい。

 

あと、君はリップクリームを無くしすぎだ。

ここで忠告する。

貴方がここを見ているかどうかは、

わからないけれど。

ホームズ、どこへ行く

―正しい嫉妬の扱い方の話―

 

毎日とりとめもないLINEを送り合うのが、ここ1年のわたしとホームズの日課である。その中で、わたしには今すぐにでも改善したい、ひとつの悪癖がある。

 

ホームズの「今日何をした写真」に腹をたてることだ。

この、何だかよくわからない胸が締め付けられるような痛い気持ち、もしかして、まさか、これは、嫉妬、なのではないか?

まさか、あの、好きな人に、してしまうという、あの、シット?

それに気づいたのは、ホームズが1ヶ月間の出張に出掛けたときである。ホームズはホームズなので、出張先はもちろん、大英帝国である。

 

荘厳にしてきらびやかな町並み、仕事の打ち合わせで行ったおしゃれなカフェ、打ち上げのパーティ、なぜか自炊したというよくできたパスタ…

1ヶ月間、送られてくるそれらの写真を見るたびに、なぜだかわたしは、ひどく泣いちゃったのである。

大好きな人が、自分に持っていないものを持っているのは、それはとてもステキなことである。大好きな人が、自分らしい時間をすごし、それを共有してくれる。それもステキなことである。

にもかかわらず、わたしの胸は「こんなにも自分が手にしていないものを持ち合わせている人間が、わたしのことを気に入ってくれているはずがないのではないか。」「その証拠に、そのステキな景色の中に、わたしはいないじゃないか。」という煩悶でいっぱいになった。わたしは顔を真っ赤にして、なぜだかひどく憤慨した。

 

毎度はずかしながら、ここではじめてこのツラさが「嫉妬」だと気づいたわたしである。

苛まれている感情に気づけたならば、しかるべき対策を取らねばなるまい。

まず、ホームズは一言も「君のいない景色はこんなにもきれいだ。君はこの景色を見る努力をしたのか?」だとか、「見てみろ、こんなことは今の君に出来るはずがない。」だとかは言っていない。

おそらく、「イギリスの景色はすばらしい!」「今日も仕事を頑張った。やりたいことがやれて充実した一日だったぜ」と、せいぜいこんな気持ちで写真を送ってきているはずだ。

落ち着かせてくれたのは、ホームズの「僕の言葉に一喜一憂しすぎた」という嗜めだった。

それをねじ曲げて受け取ってしまうのは、やはり受け手の問題に他ならないのだと気づいたのだ。

 

結局は、自分の中の欠けた部分と折り合いをつけることなのである。

冷静になってみると、別にわたしは仕事でイギリスには行きたくない。いや、ホームズが一緒に旅行行こうって言うなら喜んで行くけれども。

英語も話せないし、海外で自炊もできないけれど、それはわたしが選ばなかった選択肢にすぎない。本当に「憧れ」をいだくなら、今すぐ英会話に通って外資系の会社にでも飛び込んだらよい。でも、わたしはそれを望んでいるのか?それをやったら満足できるのか?

 

いわゆる「お付き合い」をしているのではないから、どうしても不安になり、張り合ってしまうんだろう。歳が離れているから、なおさら距離を感じてしまうのだろう。

それでも、大事な人の「いいことあった」を一緒になって喜び合えないなんて、ちょっとさみしいじゃないか。

ホームズに、送りたいと思う景色を、まだ手に入れられていないから、その欠けた部分が反応してしまうだけなのだ。

じゃあ、それはどんな景色なのか。今のわたしは何にしあわせを感じ、何によって満たされ、そして、これから少しがんばるとしたら何をがんばりたいのか。

何が出来なくて、何をしたくないのか。

したくないことをせず、したいことができるようにするには、何を揃えたらいいのか。

 

それをきちっと軸として持つことからはじめよう。少しずつでも、例えばこうやって言葉を誰かに見せることだって、わたしにとっては、大きな変化なのだ。

わたしはホームズに、ホームズの知らない喫茶店の、大好きなカステラと台湾茶の写真を送った。ここでブログを書いているよと言った。

 

ホームズは、うらやましい、僕ごのみのいいお店だ、と言った。

 

 

関係性を定義する

―「ら、ブロマンス」の話―

恋愛の対象の違いや性のあり方を表す言葉が、だいぶたくさん日本に普及してきた今日この頃である。その片仮名の並びを見るたびに、知るたびに、世界の広さを実感する。

ただ、「彼氏」「彼女」「恋人」「~フレンド」に代表される、男女の関係を表す言葉のバリエーションは、実は意外と少ないのではないか。

そんなこんなで、付き合っていなければ、「恋人」であると言えないではないか!言いたいのに!

「至極恋っぽい感情を抱いているが、恋愛だとは言い難い、異性の(恋愛対象になりうる性を持っている)大事な人」

これをなんと呼ぶか。今回はこれについて書いてみよう。泣き寝入りはしたくない。元気をだそう。

 

さて、ブロマンスをご存じだろうか。

Bromance という単語は、bro もしくは brother(兄弟)と romance(ロマンス)のかばん語である。(wikipediaより)

常々代表とされるのが、シャーロック・ホームズとジョン・ワトスンとの関係だ。

(ちなみに、wiki先生によると

かばん語」という言葉は、ルイス・キャロルが『鏡の国のアリス』の作中において、一群の造語を「portmanteau」という中央から真っ二つに開くタイプの旅行カバンに関連付けて紹介したことに由来する

そうで、これもなんだかかわいらしい)

 

ブロマンスの関係には、恋愛的要素は含まれないのが大前提。だから、異性間の関係に「ブロマンス」はたぶん使えない。

ま、まあ、男女の間には、どうあがいても<ロマンス>の部分が多めに発生してしまうことは生物学上しかたのないことだとしよう。それでも何か、このブロマンスに近い関係を、異性同士(恋愛対象の性別同士)で作ることは、難しいのだろうか。

「彼氏」「彼女」という関係に互いを落とし込むことができず、「~だけをする」と決まっている友達でもない。「恋人」「パートナー」と呼ぶには人生経験に差がありすぎ、基本的には、個人を尊重する。

それでも、時には同じ時間を共有し、互いを大切に扱って、大事に思う。

知らないことを教え合い、考えを交換し、趣味をわけあい楽しむ。

身体と心をむやみに傷つけあうことなく、安心できる場所でいる。

まさに「兄」と「妹」のような関係も、あっていい、とわたしは思う。

兄弟はbrotherで、姉妹はsister

性別を問わない「きょうだい」は、sibling

 

Sibromance

 

そうだ、この関係をシブロマンスと呼ぼう、

勝手に!

と、昼休みの喫茶店でサンドイッチを頬張りながら思い付いた話である。食後のコーヒーが来る頃には、少しだけ、気持ちが憂鬱でなくなっていた。

二人の関係は、二人で決めていけばよいのだ。

まあ、時として、相手の意図をも組まず、眠たい午後の独りの妄想で、名付けてしまったってかまわないのではないかな。

 

それが恋だと気づくとき

 

長らく、恋愛的感情に、疎くて疎くてうとうとだったわたしである。はじめて誰かに心底惚れて、まず、それをとにかく言葉にした。

 

貴殿のこういうところがすきで、

貴殿のこういうところはちょっときらいで、

わたしはこういう人間で、

わたしはこういう気持ちです。

 

とにかく伝えたかった。

自分が発する言葉の出来に、帰ってくる言葉に、それはもう一喜一憂した。スマホからメッセージを確認するたび、呼吸が浅くなり、胸が塞いだ。

 

近頃ふと、それをやめようと思った。

単純に、自分にギブできるものがないと悟ったためである。

貴殿が求めているようなものを、僕はあいにく、ほとんど持ち合わせてはいないので。何かほしいものがあれば、勝手に拾っていって欲しい。

 

何か必要であればそれは持っていってくれて構わないけれど、持っていないものはあげられない。

それでいいのだと思った。そう思えるようになった。

 

わたしは貴殿のアドラーにはなれず、わたしはいつかメアリーを見つけるのかもしれない。

それでも、胸ポケットに男性も使えるシトラスの香りのハンドクリームと、新品のリップクリームを常に入れるようにまでなってしまったとき。

とても恥ずかしいことなのだけれど、

自分は人を「すき」になることが出来るのだと、そこではじめて気づいた次第である。

それが「マイディア」どまりの気持ちであろうと、ギブとテイクがままならなくとも。

この気持ちを抱えられるなら、今のわたしにとってはなんら問題ないのだ。

 

 

 

高嶺の花に愛されたい

 

ホームズは、わたしより一回り歳上の大人な男なだけあって、実はそれなりにステキでえらくてすごい人らしい。

だから、いつもわたしはしょげていた。

Facebook見て泣いちゃった。

平凡で、美人でもなく、お仕事も無難に毎日こなしているだけの、小さな小さなガチガチ日本文学専攻のわたしにとって、ホームズのFacebookエビデンスがオールアグリーでまったくの意味不明であった。

 

たしかにアグリーではあるが、小さくて怠惰でのんびり屋なわたしにとっては、もうただ劣等感をめちゃくちゃに刺激する小難しい言葉の羅列として並んでいるようにしか見えない。

心臓が痛い。文学に対するとんだ解釈違いだ。巣に帰ろう。わたしが踏み込むべき場所ではないぞここは。

 

恋愛でなくても、自分よりステキでえらくてすごい人を好いてしまって、さみしくなることはよくあることなんだろう。

そういう時は、自分をまず受け入れることが必要だと、最近考えた。

何もできなくて、弱くて、無難なわりに変なところで奇抜な自分を、まずはすきにならねばならぬ。

と、二村ヒトシさんの本を読んで思ったのだけど、やっぱりそれはなかなか難しい。

泣いちゃうくらい難しい。

 

そんなとき、ホームズは足を組み、パイプをふかしながら(ここまではフィクション)大威張り(ここはノンフィクション)で言ったのだ。

 

「ぼくは言わば<高嶺の花>なので、高嶺の花に好かれている君は、もっと有頂天になるべきだ」

 

(ホームズはこういう人なんである。)

 

だから、わたしは自分をすきですきですきになりまくるしかない。

自分をすきになるためのエビデンスは、自分の中にきっとあるから、オールアグリーだ。

書くことと読むことと

 

書くことは大すきだけど、読むことは苦手だ、というのが長らくコンプレックスである。

 

本をたくさん読める能力と、文章を書く時に使う能力は、少しちがう気がするというのが自論なのだけれど、今のところ、あんまり賛同は得られていない。

新卒時代、ことごとく「読書量が少ない」と面接に落ちまくった。自業自得である。

 

食わず嫌い、読まず嫌い。

本をまったく読まないわけではない。

むしろ本はすきだ。

 

大学時代、太宰治を研究しているとき、太宰の作品はすべて読んだ。それはもう猛烈に読んでは消化した。

すきな作家の新刊は必ず買うし、雑誌も読むし、web記事も大すきだ。

でも「読書量」は全然足りていない。

 

料理をするのがすきなひとと、食べることがすきなひとがいるように。

「書く」ことと「読む」ことを別の「すき」として認識してもらうのは、難しいんだろうか。

やっぱり、いろんな味を知っていないと、おいしいものは作れない、のか。

当たり前のことだ。

 

すきなだけ読んで、すきなだけ書きたい。

偏食家なわたしはだめだめである。

27歳、はじめて誰かを好きになる

 

まだ、ここに何を書こうか決めていないのであるが、まずは今いちばん書きたいことについて、書いてみようと思う。

 

恥ずかしながら、恋愛というものを、生まれてこのかたずっとずっとしてこなかった。

それが、人間として「人生経験不足」と言われる可能性を考えたこともなかった。

それが「さみしい」と思ったこともなかった。

ただ、好きな人がいなかった。

それだけのことなのだけれど。

 

目の前のことに夢中になる癖があるので、学生時代は勉強が楽しかった。

大学時代は文学研究に没頭した。大学生なのに皆勤賞ばりに講義に出た。自己満足で一等厚い論文を提出して卒業した。

とりあえず社会人になって、仕事をがんばった。問題なく働けた。よかったなと思った。

それはもうマジで。

 

そして、ついこの間、初めて人を好きになった。

好きになった、のだと思う。

「すき」の感情がよくわからないので、その人に話しかけるのも恥ずかしくなかった。ただ、話したかったので、よくおしゃべりをするようになった。

食事に行くようになっても、映画を一緒に見ても、特別なものだと思わなかった。

今でもそうかもしれない。

 

一緒にいても、一緒に出掛けても、これは「お付き合い」でも、「デート」でもない。

彼もそう言っていた。

 

彼のことを、ここではホームズと呼ぼう。

ならば、わたしはワトソンだ。

この呼び方は非常に恥ずかしいのだけど、わたしの中でやはり非常に愛着があるので許してほしい。

 

ホームズは、わたしより一回り以上歳上の未婚の男性であり、ワトソンはしがないしがないOLである。

我々は、付き合っていない。